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本栖湖

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富士五湖最西端に位置し一番水深の深い本栖湖

富士五湖最西端に位置し一番水深の深い本栖湖

岡田紅陽さんの富士子が待っている「本栖湖」へ

いそいそと今日も“富士子”のもとへ。今日の彼女はどんな姿を見せてくれるだろうか。また見たこともない表情を見せてくれるに違いない。
今回の巡礼地は、富士五湖のうち三つ目となる「本栖湖」。本栖湖といえば、旧五千円紙幣と現行千円紙幣の裏面に描かれている湖と逆さ富士の風景だ。となれば、その元となる写真を撮った“紅陽”さんだ。“ 富士子”は、写真家「岡田紅陽」さんの請け売りである。
岡田紅陽さんは、大正から昭和に活躍した写真家で、現在ではプロからアマチュアまであまた裾野を広げる富士山写真家の、まさに先駆者。当時はまだ、今以上におそれおおい存在であった霊峰富士を、“富士子”と呼んだ人だ。 撮影に行く時の紅陽さんは、いつも手ぬぐいを頬かぶりしたスタイルで、“富士子に会いに行く”と言っては出かけたという。 そんな人だから、偉大な先人を“紅陽さん”とつい親しく呼んでみたくなる。
紅陽さんが富士子を撮影したのは、もちろん本栖湖だけではない。河口湖畔の産屋ヶ崎や忍野村なども有名だし、山麓の湖から周囲の峠まで、いたるところ紅陽さんの足跡だらけのようなものだ。その生涯で撮り残した富士子はなんと40万枚におよぶ。
紅陽さんについては、岡田紅陽写真館のある「忍野」の巡礼の回でまた詳しく触れてみたいけれど、今ひとことで紅陽さんを語るなら、ご自身の残した言葉そのまま、“富士こそ、わがいのち”の人だった。

昭和10年の5月、本栖湖の北西岸で撮った一枚の富士子が、昭和59年に発行された五千円札の裏面の図案のモデルとなった有名な『湖畔の春』。3万点をこえる富士山写真の中から選ばれたという。
そして、いまだに、「紅陽の富士」といえば、余人をもって代えがたき存在だ。
紅陽さんが生前に語ったという、こんな言葉もある。
“正直のところ私はカメラも好きだが、それよりもまして富士山それ自体が大好きなのである”。

ちょうど富士山が正面にくる本栖湖の北西岸に、現在も紅陽さんが常宿にしていた民宿『浩庵』がある。一階のレストランに飾られた写真には、頬かぶりした紅陽さんが三脚の前で笑っているポートレイトと『湖畔の春』が並んで飾られていた。
それは白黒写真であるのに、一瞬にして瞼にあざやかに焼きついて消えなくなった。春のどけき日のほがらかな富士子さんがほほ笑んでいた。
ここまでの巡礼地では、おもに信仰の対象としての富士山に触れることが多かった。紅陽さんに出逢ったおかげで、ここ本栖湖でのテーマが見えてきた気がする。富士山を富士子と呼んだ紅陽さんの想いのなかに、芸術の源泉としての富士山が感じられた。

「千円札の富士山」を求めて冬枯れの中ノ倉峠を登る。撮影ポイントまで湖畔から30分ぐらい

「千円札の富士山」を求めて冬枯れの中ノ倉峠を登る。撮影ポイントまで湖畔から30分ぐらい

「千円札の富士山」を探して、湖畔の風の道を登って行く

たしかにどこかで見た風景だと思うのだけど、そういえば、どこか今ひとつしっくりとこない感じがあった。
民宿『浩庵』さんの向かいにある湖畔駐車場には、たくさんの人が車を止めて、本栖湖畔越しの富士山の絶景にめいめいカメラを向けていた。
富士山に向かって右手に竜ケ岳の峰が伸び、左手には富士山の裾野にかぶるように大室山がある。 岡田紅陽さんが撮った「千円札の富士山」と、ほぼおなじ構図だ。でも、どこかが違う。手もとの千円札を取り出してみたが、もっとはっきり違いが分かったのは、浩庵さんで拝見した生の『湖畔の春』を見た時だ。なんというか、奥ゆきとか広がりがまったく違っていた。
実は、本当の千円札の富士山のポイントは、宿の裏手の山を少し登った「中ノ倉峠」の山頂近くにあるという。違いを確認するためには冬枯れの山を30分ほど登らなければならなかった。凛と澄んだ空気が思いがけず気持ちよかった。富士山は、冬もいいのだ。
徐々に眼下に遠くなる本栖湖を横目に、風よ止んでくれ、とつぶやきながら登った。
逆さ富士を見る条件はいくつかあって、大前提はまず風が無く湖水に波が立っていないことだ。そもそも本栖湖で逆さ富士が見られるのは極めて稀で、そのチャンスは年に一、二度とも聞いていた。そのほとんどが風の穏やかな5、6月の午前中に限られるそうだが、浩庵のご主人が言うには、この日の数日前の午前、逆さ富士が見られたという。
もう一度その奇跡を、と願ってみたが、むしろ分かったのは、この季節の本栖湖は風の名所だということだった。まるで湖面から沸きたつような風が起こり、周囲の山々に向かって吹きあげ、木立の枯れ葉を一斉に散らすと、ぐんぐん上空に巻きあげて、輝く無数の落ち葉が湖を富士山に向かって渡る黄金の竜のようにも見えた。

岡田紅葉さんはここに三脚を立てたのだろうか?「千円札の富士山」を遠望する。かすかに本栖湖に富士山の影が!

岡田紅葉さんはここに三脚を立てたのだろうか?「千円札の富士山」を遠望する。かすかに本栖湖に富士山の影が!

春を待つ本栖湖で、“芸術の源泉”としての富士山を見つけた

ほんの少し高度を上げるだけで、こんなにも眺めが変わるものなのだ。富士山はより高くそびえ立ち、本栖湖の大きな広がりと深みがより感じられる。湖を優しく抱くような竜ヶ岳まで、すべてが完全にひとつに調和して見えていた。かつて何度となく、ここに紅陽さんが立っただろうことが今度は確かに感じられた。
今は安全のため手すりが設けられた展望台から、さらに少し上がると幾つかの岩がある。紅陽さんはそのうちの一つの岩を選び、風が止むその春を待ったのだ。白く凍える冬にも富士子を見つめ続けた紅陽さんだからこそ、湖畔の春が永遠の一瞬となって輝いたのだろう。
古代から中世にかけて富士山はあまりに偉大で、主には信仰の対象であり、日本最古の歌集とされる万葉集や、室町時代の曼荼羅図などに描かれた富士山にしても、そのイメージは抽象的で観念的なものであったと思う。
もっと個人的な、それぞれの人の心にある富士山が絵画や文学として描かれるようになったのは、富士山の激しい噴火もおさまった近代になって、特には江戸時代以降のことではないだろうか。
葛飾北斎の『冨嶽三十六景』、横山大観の『群青富士』、太宰治の『富嶽百景』など世界に名だたる巨匠の超大作に並んで、紅陽さんの富士子はある。その原点に通じているのは、他の誰にも描けない、その人が見た富士山が、生き生きと永遠の富士をそこにとどめていることだ。

本栖湖観光案内所に併設された本栖歴史館
本栖湖観光案内所に併設された本栖歴史館
本栖歴史館に陳列されている湖底遺跡の土器の数々
本栖歴史館に陳列されている湖底遺跡の土器の数々

本栖湖畔で出逢えるもう一つの奇跡
竜ヶ岳からの「ダイヤモンド富士」

富士五湖のなかで最も水深の深い本栖湖の湖底には、今もまだ謎の不思議な物語りがいくつも眠っている。
ひとつは、本栖湖の湖底に水中遺跡がある、ということだ。発見のきっかけは本栖湖で遊ぶダイバーたちの目撃証言だったという。水深があって透明度の高い本栖湖はダイビングスポットにもなっているのだ。
「湖底に土器がある」。目撃の報告が多かったポイントを調査すると土器が次々と見つかった。
そのほとんどは1600年ほど前の古墳時代前期のカメやツボで、なかには4000年以上前の縄文時代の土器や石器も見つかったという。
それはつまり、かつて、そこに人々が暮らす村があった証だ。しかも時代を超えて幾度となく、富士山の恐ろしい噴火にあって村を水没させられてもなお、古代の日本人は霊峰富士の麓で生きることを繰り返し求めたことを物語っている。
そんな遥かな歴史につながるものか、本栖湖の湖底には竜が住むという伝説もある。
むかし富士山が噴火した時、灼熱の溶岩が本栖湖に流れこみ、湖の主の竜が熱さのあまり逃げ出して、当時「小富士」と呼ばれていた湖畔の山に駆け昇った。これが今の「竜ヶ岳」の名の由来だという。また別の伝説では、富士山の大爆発を予知した湖の竜が、小富士の山頂に昇り村人に告げて救ったという説がある。小富士は竜ヶ岳と呼ばれ人々に信仰されるようになった。
その竜ヶ岳といえば、ちょうど新年を迎える前後のころ、富士山の山頂から太陽が登る「ダイヤモンド富士」を見られることで有名である。瑠璃色の湖水が映し出す数々の物語りに想いはせながら、もうひとつの奇跡を拝み見れたなら、その感動はひとしおだろうと思う。

竜ヶ岳の笹原を登りながら西湖方面を。空が明るくなってきた
竜ヶ岳の笹原を登りながら西湖方面を。空が明るくなってきた
張り詰めた空気の中「ダイヤモンド富士」を待つ
張り詰めた空気の中「ダイヤモンド富士」を待つ
竜ヶ岳から「ダイヤモンド富士」

竜ヶ岳から「ダイヤモンド富士」

本栖湖イラスト

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本栖湖観光協会(観光案内所、12 月~3 月休業)
住 所:山梨県南都留郡富士河口湖町本栖18
TEL:0555-87-2518

富士河口湖町生涯学習課
住 所:山梨県南都留郡富士河口湖町船津1754番地
TEL:0555-72-6053(直通)

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