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河口湖

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十一の巡礼-河口湖

河口湖産屋ヶ崎からの富士山

河口湖産屋ヶ崎からの富士山

自分だけの絶景を探して 先人の想い出と歩く「河口湖」

そのころは、広がる稜線が地平線と重なってどこまでも伸びてるように見えたのではないだろうか。その裾野で目に入るのは、ただ鏡のように静かな河口湖と船津、河口、大石、勝山など、古くからの集落の慎ましい暮らしぶり。ふくらみ初めた桜の小さなツボミ。他には何もないことの眩しさに満ちていたことだろう。 松尾芭蕉が『野ざらし紀行』でこの地を訪れたのが、江戸時代の貞享二年。中村星湖が故郷、河口湖の風土を描いた名作『少年行』を発表したのは明治四十年。岡田紅陽が『産屋ケ崎』を含め初めての富士山を撮ったのが、大正三年の春。 今や富士北麓屈指の観光地で「新富嶽百景」も一番多く選ばれている河口湖が、昔どんなだったか三人の記念碑が残る『産屋ヶ崎』の桜のツボミの下で想い馳せてみた。

河口湖産屋ヶ崎 河口湖大橋と富士山

河口湖産屋ヶ崎 河口湖大橋と富士山


「雲霧の暫時百景をつくしけり」 芭蕉が見た富士山は霧の中。句碑に刻まれていたのは『奥のほそ道』より前、芭蕉初めての紀行文『野ざらし紀行』で、江戸からふるさとの伊賀(三重県)へ旅した帰路、河口湖に立ち寄った時に芭蕉が見た富士山だ。雲と霧が瞬間に富士山に百もの風景を生み出していると詠んでいる。 また往路の箱根から詠んだ一句も…。 「霧しぐれ富士を見ぬ日ぞおもしろき」 伊賀への旅の目的は母の墓参りだったそうで、「見えない富士であっても」という心境が生まれえたのかもしれない。ふつう観光で富士山を求めて来て、その富士山が見えなければがっかりするだろうけど“富士を見ぬ日ぞおもしろき”を発見するのも日本的な感性。相手が富士山だからこそとも思える。

産屋ヶ崎の芭蕉の碑 産屋ヶ崎の芭蕉の碑 同じく産屋ヶ崎の中村星湖碑 同じく産屋ヶ崎の中村星湖碑

一方、中村星湖の句碑には『少年行』の冒頭の文面が刻まれ明治から昭和という時代、富士山の裾野の厳しい自然と対峙して生きなければならなかった少年の風土への実感が伝わってくる。 「溶岩(らば)の崩れの富士の裾は、実に広漠たる眺めである」 また一方、写真家・岡田紅陽が出逢った富士山は満点の晴れやかさ。 春の陽が富士山にあたり湖畔のサクラは満開。無風状態の波ひとつない湖面は鏡のように輝いて逆さ富士をくっきりと映し出している…。 生涯を富士山に捧げるきっかけになった河口湖『産屋ヶ崎』の富士山との出逢いだった。 これが全て同じ場所の富士山。人によりその時の心の状態、時代、出逢い方によってまったく違う彩りをもつ富士山の面白さ。それを見つけられるのが河口湖かもしれない。 富士山の大きさを背に感じながら、生きていた人々の想いや、富士山の神話の世界をたどって歩いてみた。

岡田紅陽のレリーフ

産屋ヶ崎の湖畔の岩壁に何とも言えない良い表情で 三脚を担いで富士山の眺めている岡田紅陽のレリーフがある。

改めて河口湖の富士山と桜に想う わたしたち日本人にとっての自然の美しさ

『河口湖大橋』は、河口湖南岸の岬と北岸の岬をつないで掛かっている。大橋の工事が着手されたのが昭和四十三年。河口湖ゆかりの先人たちが見た風景のなかに、この大橋はまだ無かったことになる…。今は河口湖を象徴する大橋だ。 河口湖大橋の北の起点の岬が、先人の句碑が集まる『産屋ヶ崎』。そして『産屋ヶ崎』といえば、まず“富士山と桜と湖”という、まさに日本人の原風景そのものに出逢える場所として有名。「河口湖の富士山」の代名詞的な場所。 そして河口湖畔の魅力として「富士山と桜」以外の名所が、数多く点在していることだ。

桜と富士山 産屋ヶ崎

桜と富士山 産屋ヶ崎


初夏には、「大石公園」と「八木崎公園」のラベンダー、カチカチ山「天上山」のあじさいなど、花々が富士山と共演し、季節の一瞬のきらめきを見せてくれる。 秋はまた、 北岸で約150mにわたる「もみじトンネル」や、約60本の巨木の「もみじ回廊」など、富士山と湖と紅葉という、これまた必見の三大響宴となる。 そんな風景に見る度に心が震わされるのは、きっとそこに富士山と季節が一つの風景として感じられることだと思う。四季絵巻のように彩やかな「河口湖の富士」の中に自分だけのお気に入りの絶景が見つかれば、なおさらうれしいと思う。
ラベンダーと富士山 大石公園

ラベンダーと富士山 大石公園


 
もみじトンネル

もみじトンネル

『産屋ケ崎』と日本の古代神話との繋がり

湖の岬の突端にこんもりと立ち上がった岩場がある。その岩場の上に小さな祠が建てられ祠は良く見ると溶岩で作られている。つまり祠は富士山の身体の一部で出来ている。 その祠が河口湖大橋の上からだと良く見える。 少しミニチュアの海の岬の様で出雲神話の中心舞台「稲佐の浜」の小さな社が立つ岩場を思い起こさせた。 桜咲く季節『産屋ケ崎』は一年で一番賑わう。満開の桜越しの河口湖と富士山を一目見たり写真に収めたいと多くの人が訪れる。ちょうどその頃毎年4月25日この小さな祠で神さまのお祭りが行われている。そんな「産屋」に伝わる詳しい由緒を知る人は、意外に少ないのではないか。わたし自身もそうだった。 今回は岩場の上に立ち、しっかりこの目で確認してみた。祠のかたわらに由緒を記した看板があった。この小さな社は、四の巡礼で巡った『河口浅間神社』の末社にあたり、安産にご利益のある霊場とある。思いがけなかったのは、奉られる神さまの名前。ご祭神は、“海彦、山彦”の神話で知られる、山彦こと「彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)」と、“龍宮城”の伝説で知られる、乙姫こと「豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)」だった。 これまで、産屋ヶ崎といえば、富士山の神さま「木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)」に縁ある場所とばかり思いこんでいたので驚いた。豊玉姫命といえば、出雲出身の海神(ワタツミ)の娘。山中浅間神社、西湖の「竜宮洞穴」など、富士山周辺でもその名を見かけることがあった。古代の神話に乗っ取って、自分なりに整理してみることにした。 まず海彦と山彦は、 木花開耶姫命が火のなかで産みおとした三人息子のうちの二人であること。火の神として生まれた山彦は、水の神の乙姫と龍宮で運命的な出逢いをし結婚をする。乙姫のお産のため山彦は、母のお膝元のこの岬に「産屋」を作る。茅(かや)の代わりに鵜(う)の羽根を集め屋根を葺(ふ)くのだが、葺き終えぬうちに子は生まれ「御子鵜茅葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)」と名づけられる。つまり木花開耶姫のお孫さんだ。 桜咲くころのお祭りは「孫見祭り」。木花開耶姫命が“産衣”を持って孫の誕生を祝いに渡ってこられる。「河口の稚児の舞」が奉納される祭りとして有名だ。なるほど、そういう縁だったのである。

河口湖産屋ヶ崎の豊玉姫命を祀った祠

河口湖産屋ヶ崎の豊玉姫命を祀った祠


子どもの頃に知った様々な昔話も富士山の神さまも実は日本で最初に書かれた神話「古事記」のなかでは、すべて一つに繋がっている。紐解いてみると富士山の世界の裾野が日本の端々まで広がるようで面白い。 おそらく古代神話とは山、海、火、水、太陽といった自然信仰が元になって、その不思議さや素晴らしさを神々の物語りとして仕立てたのが始まりなのではないだろうか。 産屋ヶ崎に伝わる神話は、富士山の神様のもと海と山、水と火、女性と男性という異なる存在が一つに結ばれ新しい命が創造される物語だ。なるほど、安産の霊地。 神さまの物語が生まれた場所に、その後世この地に惹きつけられた先人たちの足跡が記されているのも偶然でないような気がする。富士山の奥深さに繋がる『産屋ヶ崎』のような場所が、この広い湖畔にはまだまだ隠れているかもしれない。
新道峠から見た朝の河口湖と富士山

新道峠から見た朝の河口湖と富士山


河口湖イラスト

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富士河口湖町生涯学習課 住 所:山梨県南都留郡富士河口湖町船津1754番地 TEL:0555-72-6053(直通)

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