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富士五湖ぐるっとつながるガイド

忍野八海

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忍野八海

忍野八海「湧池」

忍野八海「湧池」

けがれなく、素朴で、雄大 忍野村の朝は、遠い日のふるさと

澄みきった青空に雲をたなびかせて、富士山がいっそう清々しくそびえて見えた。 まだ誰も踏みいれてない小川の土手は、まっ白に霜と霜柱が薄化粧し、さくさくと踏みしめて歩いてみた。今では珍しい舗装されていない土手の感触を楽しんでみる。 耳に聴こえてくるのは、小川のせせらぎと小鳥のさえずりだけだった。静かに安らいだ時間は、懐かしい故郷の朝に帰ってきた気がした。

新名庄川より雄大な富士山を望む

新名庄川より雄大な富士山を望む


忍野村には、八つの湧水「八海」をつなぐように桂川の支流「新名庄川」と「阿原川」が流れ、八海巡りをしながら土手の道を散策もできる。 今では、観光地としてにぎわいを見せる忍野八海周辺でも、こんな土手沿いや、茅葺き民家の裏のあぜ道など、ふとした場所で、かつて故郷の原風景の面影に出逢うことができる。 ふと、自分のなかにある忍野村のイメージが、ある写真によって焼きつけられたものなのだということに気づいた。富士山写真家の第一人者であった岡田紅陽さんが撮った、いわゆる「忍野富士」…。 けがれない田園の風景がどこまでも広がり、水車と素朴でつつましい人々の暮らしを見守るように雄大な富士がそびえる…。 どこかで目にしてきた紅陽さんの写真が、永遠の忍野村の印象として消えないでいるのだった。茅葺きの家々が少しずつ近代の家に変わった今も忍野村は、その写真のなかのままで人の心のなかに存在し続けている。これは、紅陽さんの偉大な功績だとおもう。 紅陽さんが生涯をかけて愛した“富士子”の撮影場所として、もっとも多く通いつめたのが忍野村だったという。『一度村へ入ってからは忍野村の虜になった』と語っている。また、『ベートヴェンの第六楽章交響曲「田園」の音楽にふさわしい田園風景だった』とも。 特に冬の早朝忍野村を好まれたようだった。 こんなのどかな朝に、せせらぎの音に耳をすましていると、水澄みて山蒼きふるさとの姿が心に鮮やかに蘇ってくる。 そんな忍野村を、きれいに洗い清めているのが、富士山から湧きだした八つの湧水の「忍野八海」だった。きっと富士山にとっても忍野村は特別な存在なのだろう。

榛の木資料館 榛の木資料館 香ばしい匂いに誘われて焼き草もちをいただく 香ばしい匂いに誘われて焼き草もちをいただく

八海すべてを、巡ってみた

第三霊場の「底抜池」がある「榛の木資料館」(入園料必要)では、忍野最古といわれる豪族屋敷と民家内を見学でき、展示されている史料などから当時の村の暮らしを偲ぶこともできる。また敷地内から眺める茅葺き民家と水車のある富士山の景色は、岡田紅陽さんも何度となく足を運んで撮った当時の風景のままの「忍野富士」なのである。 八海は、途中で名物の忍野名水そばや焼き草もちなど美味しいものを食べながら、半日もあれば十分に巡ることができる。ただ、この「底抜池」と、少し離れた場所にある第一霊場の「出口池」はつい飛ばしがちになるのだろう。この日も、この二つの霊場は、八海中心の賑わいをよそに、ほかに人の姿はなかった。そのせいかかえって心に残っている。 今度は、小川の新名庄川の土手の桜並木が満開になるころ、もう一度、こだわって昔に定められた巡礼順に八海を巡ってみたいと思う。そうしてこそ八大竜王さまのご利益がいただけるかもしれない。

八海で最大の「出口池」(第一の霊場) 八海で最大の「出口池」(第一の霊場) 池の直径約2m水量豊富な「御釜池」(第二の霊場) 池の直径約2m水量豊富な「御釜池」(第二の霊場)
榛の木資料館の最奥にある「底抜池」(第三の霊場) 榛の木資料館の最奥にある「底抜池」(第三の霊場) 長柄の銚子に似た「銚子池」(第四の霊場) 長柄の銚子に似た「銚子池」(第四の霊場)
八海で最大の湧水量を誇る「湧池」(第五の霊場) 八海で最大の湧水量を誇る「湧池」(第五の霊場) 川の一部となっている「濁池」(第六の霊場) 川の一部となっている「濁池」(第六の霊場)
逆さ富士が映ることから「鏡池」(第七の霊場) 逆さ富士が映ることから「鏡池」(第七の霊場) 周囲に菖蒲が生い茂る「菖蒲池」(第八の霊場) 周囲に菖蒲が生い茂る「菖蒲池」(第八の霊場)

富士山と雲と、岡田紅陽写真美術館

最後に、四季の杜 おしの公園にある「岡田紅陽写真美術館」に立ち寄る。 忍野村から撮られた富士山はもちろん山梨、静岡、東京など各地から撮られた様々な富士山は圧巻である。あらためて紅陽さんの富士を見て気づいたのだが紅陽さんの撮る富士山の多くには、少なからず雲があるのだ。 一般的には、美しい富士山の稜線をおさめたい写真を撮る人たちにとって雲はじゃまモノだろうに、なぜ今まで気づかなかったのか、紅陽さんの富士には、むしろ逆に、なくてはならない存在として様々な雲が一緒に映されているのだ。 富士山の裾野をとりまく霧のような雲。空いっぱいのちぎれ雲と富士山の対称。みごとな紅富士にも山頂部に紅く染まる雲がひとすじかかっている。

岡田紅陽写真美術館

岡田紅陽写真美術館


富士山は「芸術の源泉」としても世界文化遺産に認定されているが、絵画や文学などと並んで写真という表現手段が芸術の域にまで高められたのも、紅陽さんの功績は大きいのだろう。そのすごさは、生前の交流歴からも推測できた。 富士山画で世界に名だたる大家の横山大観は、紅陽さんの写真を参考に富士山を描いていたというし、作家の川端康成は写真集『富士』に序文を寄稿する間柄。文豪の徳富蘇峰は息子ほどの年齢の紅陽さんを「岡田先生」と呼んで尊敬の思いを表していた。 ほかにも、川合玉堂、梅原龍三郎、藤島武二、島崎藤村といった面々が、むしろ自分たちのほうから、みごとな富士の一瞬を切り取って見せてくれる岡田紅陽を慕っていたようなのだ。それらの詳しいエピソードが、忍野村が発行している『生誕百年記念誌 富士こそわがいのち』につづられていた。 そのなかで、雲にまつわる興味深いエピソードを見つけた。横山大観と岡田紅陽が“雲論争”をしているのである。 大観が「富士山を描く上で雲は要らない」と言うのに対し、紅陽は、「雲の感情が富士をどんなに引き立てて、美しく強調しているか分からない」と反論。「雲の変化を伴わない富士は立体感がなくなります」と…。二人による、要らない、要るの論争は決着を見ずに終わったらしい。 一方、紅陽さんに共鳴し、富士山を描くとき雲を大切にしたのが川合玉堂で、玉堂絶筆の富士は遺言により紅陽さんに送られている。 美術館のホールの大きなガラス窓から正面に、今もまだ雲と遊ぶ、まぶしいほど大きな富士山が見えていた。静かに富士山を見つめて建つ美術館は、「富士こそわが命」と語った紅陽さんの想いと生涯に触れられる貴重な場所だった。 「富士は 雲によって目醒め 雲によって眠る」 岡田紅陽
岡田紅陽写真美術館前に流れる桂川から富士山を望む

岡田紅陽写真美術館前に流れる桂川から富士山を望む


忍野八海イラスト

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忍野村観光協会 住 所:山梨県南都留郡忍野村忍草239-3 TEL:0555-84-4221

四季の杜おしの公園 岡田紅葉写真美術館(小池邦夫絵手紙美術館併設) 住 所:山梨県南都留郡忍野村忍草2838-1 TEL:0555-84-3222 開館:午前10時~午後5時(入場は4時30分まで) 休館日:火曜日、年末年始

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