北口本宮冨士浅間神社
野生と神聖をよびおこす
吉田の火祭り
御師町、上吉田地区の本町通りに点火前の大松明約80本が用意され、人の波であふれかえっていた。と、突然、その向こうから大波が押し寄せるような興奮が伝わり、「勢子(せこ)」と呼ばれる神輿の担ぎ手の若衆が、「御旅所(おたびしょ)」から本通りへ飛び出してくるのにぶつかった。火神の荒霊に取り憑かれたような人の猛りが肌から伝わり、体の内側に原初的な熱が目覚めるような高鳴りが止まらなくなった。
提灯を手にした「世話人(せわにん)」は、声をあげて人波を払いながら威勢よく通りを駆けだし大松明を次々と取り囲んでいく。興奮の中、ついに大松明に点火。大きな富士山のシルエットが浮かぶ宵空に、最初の火の粉が舞いあがる。祭りのエネルギーが極まったその一瞬、命の源である火の本質に触れたように感じられた。
「吉田の火祭り」は、静岡大井神社の「島田の帯祭」、愛知国府宮の「裸祭」とならぶ日本三奇祭に数えられ毎年8月26日と27日、富士山のお山じまいの“宵祭り”として行われる。一般には「火祭り」が有名であるけれど翌日の「すすき祭り」が本祭りである。
まず26日の午後、「北口本宮冨士浅間神社」で本殿祭と諏訪神社祭が執り行われ、その後に「お山さん」と「明神さん」という二つの神輿のお出ましとなる。
朱色の山の形をしたお山さんの神輿は、噴火し荒ぶる富士山を表わし、若い勢子により荒々しく担がれ、一方、明神さんのほうは、年配の勢子により粛々と大切に担がれるという。
二基の神輿が無事一夜の宿の御旅所へ奉安されると、いよいよ火祭りの始まりとなる。
北口本宮冨士浅間神社から上吉田地区の中曽根交差点まで約2kmに、高さ3mの大松明が並ぶほか、家々の門前でも井桁に組まれた松明が焚かれ、さらに、この時は富士山吉田口登山道の山小屋でも松明が燃やされる。まさにお山と麓の町が一体となって火づくしなのである。
今は一般に、“鎮火祭”として知られる祭りであるけれど、実際には火の力をいただく、という実感が強かった。
赤々と燃え盛る火の川と化した町を、火の粉をくぐり歩けることなど日常ではありえない。火の神に祈り火をもって火を制す、という世界感が生きているのだ。
雨だろうが台風だろうが祭りは必ず執り行われ、 これまで松明の火による火災は一度も起きていないという。富士山と、そのお膝元である“北口本宮冨士浅間神社”の土地とのつながりの深さを、火祭りは象徴している。
富士山の北口をお守りする
“せんげんさん”
北口本宮冨士浅間神社の参道に一歩足を踏み入れると、からだ中に清々しい気が満ちわたる。
参道の両側には、樹齢百年以上の杉が、まさに天を突くがごとく伸び、 さらにその足元に風雪に削られ苔むした石灯籠が並ぶ。気高き社へ人々をいざなう巨大な生きた回廊のようだ。
長い参道をゆっくり歩いてるだけで、この場所に息づいてきた自然の気と信仰の気に心と体が洗われていく気がする。
全体にこのお社は、富士山そのものを表そうとしているのではないかと思える。神社全体を包む荘厳さは、この土地に受け継がれる想いでもあるのだろう。
それだけの立派な社を、さらに広大な「諏訪の森」がすっぽりと包み、この場所に来れば、富士山に登らなくても富士山の大きさを感じられる気がする。
“せんげんさん”が、富士山世界遺産の「構成資産」になり改めて訪ねてみると、今まで気づかなかった発見が幾つもあった。
この大きなお社の境内には、富士山の神様「木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)」が祀られているだけでなく壮大な富士山コスモロジーが詰め込まれていると思われた。
富士山の北の玄関口に息づく
壮大な富士山コスモロジーを発見
まず、参道の中ほど、しめ縄のかけられた一つの岩がある。「立行石(たちぎょういし)」とある。
江戸時代に栄えた「富士講」の開祖「角行(かくぎょう)」が、この地から富士山を遥拝しながら、真冬の酷寒のなか裸身で爪立ちし、30日の荒行をしたという。その角行は106歳で大往生したという。なるほど庶民に富士山信仰が広まる元になった人物にふさわしい逸話がこの石には記されているのだ。
続いて大鳥居の前を流れる「御手洗川」。吉田口登山道を五合目まで往復した帰りに、その清らかな流れに涼まさせていただいた。夏でも痛いくらい冷涼な水の流れでタオルを浸し汗を拭くとカラダまで軽くなった。考えてみれば、この巡礼で辿ってきた富士山周辺には富士山という聖地に入る前に身を清めるための禊ぎ場が、無くてはならぬ存在として数限りなくあった。そして“せんげんさん”は、参拝のための神社というだけでなく、富士山への登山口でもある。
大鳥居、続いて歴史を感じる随神門をくぐると、まず正面に神楽殿。その後手に拝殿、さらに奥手に御本殿。さらに背後が、“富士えびす”と知られる恵比寿社、両側には東宮本殿と、西宮本殿が構える配置。
ただお参りしていた時には気づかなかったけれど、広い境内を隅々まで見て歩けば、それこそ八百万の神々さまが集結している。おそらくこの配置にも意味があるのだろう。
本殿に祀られるのは、もちろん浅間神社の神さまの三神。まず、富士山の神様の「木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)」。そして、夫神様の「彦火瓊々杵命(ヒコホニニギノミコト)」、父神様で全て山々の神である「大山祗命(オオヤマヅミノミコト)」。本殿の裏に回れば日本神話の始まりである大黒さんと恵比寿さんが祀られている。
西宮には、「天照大神(アマテラスオオミカミ)」。また東宮には、河口湖産屋ヶ崎で祀られていた「彦火火出見命(ヒコホホデミノミコト)」。富士山の巡礼で構成資産を巡ると日本古来のたくさんの神さまに出会える。
さて、そんな神々さまが座す一番奥の場所、本殿に向かって右手奥に小さいながら趣きのある鳥居がある。ここが吉田口登山道の起点となる「登山門」だ。
今も富士山の麓から徒歩で登れる唯一のこの登山道を、世界遺産登録で再び歩いてみようという人が増えている。ただ一般には、途中の「中ノ茶屋」か「馬返し」まで車で行ってしまう人がほとんどだろう。でも、せっかく登るのであれば、まず北口本宮冨士浅間神社をお参りし八百万の神々さまに祈って、この登山門をくぐって富士山を目指したいものだ。
登山門から150mほど歩くと「大塚丘」がある。「日本武尊(ヤマトタケルノミコト)」が東方遠征の折り、この場所から富士山を遥拝して、「北方に美しく広がる裾野をもつ富士は、この地より拝すべし」というミコトノリを残されたのだという。
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北口浅間さんを抱く
大きな諏訪の森の奥深く
最後にもうひとつ、忘れてはならない、大きな発見があった。
なぜ、北口本宮冨士浅間神社のある一帯を「諏訪の森」というか。北口本宮冨士浅間神社に集まるゆかりの神様のなかでも、特別な存在の神様の社がある。境内の東側に位置する「諏訪神社」だ。北口本宮冨士浅間神社の祭礼とされる「吉田の火祭り」で担がれる神輿の一つ「明神さん」が、この諏訪神社の神様だ。
浅間神社に関わる火祭りの起源伝説として、猛火のなかで出産をした「木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)」の古代神話がよく知られている一方で、火祭りの起源を諏訪明神の例祭とする説も知られている。
「甲斐国志」には、上吉田村の諏訪明神の例祭として町中で篝火を焚くとあり、上吉田の産土神と記されていると言う。この地での古い歴史が諏訪神社にあったとすれば、諏訪の森の名の由来も想像がつく。現在の火祭りでも、お山さんの神輿は、明神さんの神輿を決して越してはならないのだそうだ。明神さんが敬われている。
長野県の諏訪大社といえば、日本の神社のなかでも古い歴史があり、「御柱祭」に象徴されるように古来からの自然信仰的な色あいが濃い神社である。諏訪大社では、諏訪明神は“蛇体”となって現れる。吉田の火祭りでも、神輿が神社から上吉田の町へ下るとき、白い蛇神が一緒に渡るとされるなど“諏訪”を起源とする風習が今も様々と受け継がれている。
大きな諏訪の森の存在が、“せんげんさん”をどっしりと支え、この地に伝わる富士山への信仰をより深く厚くしているようだ。
北口本宮冨士浅間神社 富士吉田市役所富士山課 |