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富士五湖ぐるっとつながるガイド

吉田口登山道

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吉田口登山道

馬返から登山道へ

馬返から登山道へ

徒歩で麓から登れる唯一の登山道 母なる女神に見守られ、今ふたたび「吉田口登山道」を歩く

わたしが、はじめて富士山に触れた、と感じた、あの道。大きな裾野から山腹への森にひっそり埋もれるようにあった、お山の道は、世界遺産になって、なにかが変わったのだろうか。十年前の春、歩くことで足元から全身で感じた、優しい母のようなお山のエネルギー、今ふたたび確認したくなり、「吉田口登山道」を歩いてみた。 まるで原生林のトンネルを、ひとすじの道が伸びている。 五合目から上の荒涼とした富士山とは、別世界。 登山道に行列もない。今も、ひとり静かに富士山と向かいあえる道だった。 樹々の発する良い匂いが鼻先をかすめるたび、重い足どりが、すっ、と軽くなる気がする。十年前も、芽吹きまっさかりのお山にあふれる生命力が、天と地の境への道のりを、軽やかに登らせてくれた、という印象が強くあった。 それだけでなく、山麓から山頂をつなぐこの道は、現在、富士登山道のなかで麓から徒歩で登れる唯一のルートであって、富士山を世界文化遺産たらしめた、富士山の信仰の歴史の本流が、ひとすじ脈々と流れる道なのだ。 あちこち溶岩が剥き出しの山体に、先人により整え守られてきた丸太や石畳が埋まる登山道も、とっても富士山らしい表情に見え愛おしさも増してくる。 そう遠くはない、むかし。この古道には多くの茶屋や山小屋がたちならび、鈴を鳴らした白装束の人々の列が高らかに“六根清浄”を響かせた。今は緑に染まる古道に沿い、一合目から五合目へ、朽ちかけた茶屋、神社跡、苔むした石塔や祠が点々と連なり、時の記憶のなかを歩いているような気分になる。 近代の観光の風に洗われもしてきた富士山周辺で、この登山道は、無窮に流れてきた時に今もつながれるトンネルだ。

一合目-馬返

一合目 馬返

馬返の鳥居 馬返の鳥居 富士山の使いである猿の石像 富士山の使いである猿の石像がかわいい

“ここからは馬も登れぬ”…

「馬返」地点に立つ古い石の鳥居をくぐると、体に染みこむほどの緑で、展望がほとんどきかぬほど包まれてしまう。振り返ると、富士山の使いとされる二体の猿の石像が、“あちらとこちら”の境を見守っていた。五合目が天地の境なら、ここは幽境の地。富士山という聖地と、人間の俗界とを分かつ場所。その証拠に、間もなく「禊所」跡…。 江戸時代、「富士講」と呼ばれた富士を目指す人々の集団は、まず吉田口登山道の起点となる「北口本宮浅間神社」にて「木花開耶姫命」に祈りを捧げ、さらに道中の各所で禊ぎし、徐々に下界の汚れを祓い清めながら、女神たる富士のふところへ入っていった。その跡も登山道ではたどることができた。麓から登ることに、かけがえない意味があったのだ。 大噴火を繰り返してきた富士山は、山としてはまだ若く、それゆえ五合目から下の山腹は初々しい生命力に満ちている。太古から女性神とされてきた富士山の、慈愛に満ちた優しさを体感できるのも吉田口登山道だ。富士山に名を残す伝説の修験者たちも、山頂だけでなく、この雄大な山中で修行を積み、富士山と一体となることを目指した。 一歩一歩、はじめから、古の道を歩いてみて、何より実感するのは、裾野から山腹の広がりなくして、天下一の頂きはありえない、ということ。

富士山禊所跡 富士山禊所跡 四合五勺の御座石 四合五勺の御座石

吉田口登山道と富士山頂は女性解放のシンボル 女人開山 高山たつ

男のようにまげを結い、二十五才になる「高山たつ」は、すでにまっ白に雪をかぶった富士山頂に立ち、ふるえながら、人知れず「女人開山」を唱えました。 時は、江戸時代の天保三年、旧暦九月二十七日。夏山の混雑を避け、登山限界期の命がけの登頂だったと伝えられます。 今や山ガールでにぎわう富士山頂への道が、女性に初めて開かれた瞬間でした。 それまで、日本中の多くの霊山と同じく富士山も、厳しい修験道の世界を守るため女人禁制の掟がしかれていました。 「吉田口登山道」に残る史跡からその歴史をたどってみると、たつさんによる女人開山宣言まで、女性の入山が許されたのは二合目の「御室浅間神社」跡まで(現在は神社は里宮に移されてます)。その代わり近くに「女人天拝所」が設けられ、今では吉田口登山道で唯一、山頂を仰げる穴場ポイントになっています。さらに四合五勺に残る「御座石(ございし)」が、60年に一度の庚申年だけ、女性もここまで登ってよいとされた「女人追い落しの場」であったとされます。 では、なぜ、たつさんが、これほどまで絶対的な禁を破り登頂を果たせたか…。そこには彼女を導く「富士講」の一行の存在がありました。そのリーダーが「小谷三志」という人で、三志さんは、富士講の中興の祖として富士山信仰を庶民に広げた「食行身禄」さんの平等思想を支持し、「この世は女でもっている」という考えのもと、「本当は男に負けずなんでもできる女性を不当に扱う古い世を直さなければならない」、そのためにまず、「日本一の山へ女性が登り、神がそれを喜ばれること」だとして男装した、たつさんを講中に紛れこませ、ついに山頂まで導きました。 今は誰にもこんなに身近な富士山。でもその尊さゆえに固く閉ざされていた時代は長く、その重い扉を押し開いてきた人々の歴史があったのです。その最も大きな流れが江戸時代に花開いた「富士講」、そして、その時代に最も多くの人々が山頂への道を辿った「吉田口登山道」です。

馬返ではシーズン中ボランティアの方々がお茶を振る舞ってくれる 馬返ではシーズン中ボランティアの方々が お茶を振る舞ってくれる 登山道のあちこちに残る石塔 登山道のあちこちに残る石塔
三合目の三軒茶屋跡 三合目の三軒茶屋跡 途中色々な花、昆虫に出会える 途中色々な花、昆虫に出会える

そして、天空の境へ お中道、奥庭、御庭

あぁ、まさに、富士は見れどあかぬ、なのだ。霧が切れた束の間だったけれど、眼前に山肌をさらす初秋の富士山を、うっとりと眺めた。富士山はいつだって、どこから見たって、比べようもなく違って美しいのだけど、こんな富士山は、また「はじめて」だった。 ここは、“天地の境”。昔から富士信仰の人たちにそう呼ばれてきた。 このちょうど五合目にあたる、標高2300~2400m付近の富士山の山体をぐるりと巡る「お中道」という道をがある。かつては、富士山頂に三度登頂した者だけが歩くことを許されていた富士講の人々にとって特別な修行道だった。 コース上の視界の開ける場所からは、五合目から山頂までの富士山のダイナミックな姿をさえぎるものなく眺望できた。 目の前いっぱいの雄大な稜線は、山頂から一点の迷いもなく天空を切って流れ落ち、不毛の地とも揶揄される赤褐色の山肌さえ、秋の日に映えて、えもいわれぬ美しいグラデーションを描きだしていた。ゆっくり流れる雲が、這うように山肌に影を落とし、神さまの描く模様を刻々と変えていくので、一瞬も目を離すことができなかった。 こんなに近づいてみても、富士山は、やはり圧倒的に唯一無二の存在だった。 むかしは、苦行を乗り越えた者だけ拝み見ることができた神の姿だったのだろう。ありがたいことだな~、と思う。

お中道 お中道 コケモモ コケモモ

御庭での富士山

御庭での富士山


「お中道」周辺には「御庭」さらに、富士スバルラインをはさんで「奥庭」という素晴らしい散策コースがある。そこも、まさに富士山の偉大な自然の力が作りだした“庭園”だった。 シラビソ、トウヒ、ダケカンバ、コメツガなどの亜高山帯の樹種に、自生するシャクナゲが織り混ざり、樹々はみな、厳しい風雪に倒され横倒しのまま、しかし根を必死に伸ばし、なおも天に伸びようとしている。足元に目をやれば溶岩の間を縫うようにコケモモの小さな赤い実がびっしり。 そんな天地境の命の響宴を、そびえる山頂が見守っていた。 富士講の時代も、吉田口登山道を辿ってここまで登り至れば、山頂まで行かずとも極楽浄土に来たことになったという。 山頂を目指せる登山シーズン以外でも、このコースはおすすめ。 「御庭」では側火山の火口跡も見られ、「 奥庭」の展望地からは、晴天の日ならば、眼前の富士山頂のみならず、眼下の河口湖・西湖・精進湖・本栖湖から、遥か南アルプス連峰、八ヶ岳、北アルプスまで望めるそうだ。 次回はぜひ、初冠雪したばかりの山頂を、ここから仰おいでみたい。それから、お中道をもっとゆっくり歩いて、現在も進行する山体崩壊を眺望できる「大沢崩れ」へ足を伸ばしてみよう…。
奥庭

奥庭


吉田口登山道イラスト

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吉田口登山道 山梨県富士吉田市 お問い合せ:富士吉田市富士山課 TEL:0555-22-1111 駐車場:馬返に普通車有り https://fujiyoshida.net/feature/fujisanguide/index 

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