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富士五湖ぐるっとつながるガイド

冨士御室浅間神社

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冨士御室浅間神社

富士山最古の社。冨士御室浅間神社本宮

富士山最古の社。冨士御室浅間神社本宮

古神道の時代につながる富士山最古の神社
里宮は河口湖を背に、本宮は富士山を背に、二つ向かい合っていた。

鎮守の杜の木立の向こうには、青い大きな湖水が広がって見えていた。「冨士御室浅間神社」の「里宮」は河口湖の南岸にほぼ接し、まるで湖が神社の一部のようにも見え、印象的な眺めだった。
古来から日本人の根底に流れる自然崇拝的な世界観では、山をはじめ巨石や川や滝、海など自然そのものがご神体として信仰の対象とされてきた。とすれば、湖がそうであっても不思議ではないし、実際、富士五湖を含むかつての「富士八湖」は、それぞれの存在が霊場とされていた。
この里宮に対して、「本宮(もとみや)」のほうは、富士山の山中奥深く、海抜1,700mの場所にある。 本宮の創建は699年、富士山で最古の神社として伝えられている。里宮は、958年、参拝や祭儀の便宜のため、ここ勝山の地に建立された。その時、湖までご神体として意識されたかどうかは定かでないけれど、山麓の湖までも神さまの一部とする世界観はいかにも富士山らしい。

本宮御棟札
本宮御棟札
明治22年に再建された冨士御室浅間神社里宮
明治22年に再建された冨士御室浅間神社里宮
表参道
表参道

湖畔の里宮の本殿からまっすぐ延びる大鳥居の向こうには、その富士山が見えた。 河口湖を背にした里宮の本殿は、富士山を正面に仰いでいる。
ちょうど里宮の視線の遥か先、富士山の「吉田口登山道」の二合目地点に本宮(もとみや)が座している。
この富士山で最古の神社は、古くは「御室」「北室」「山室」などと称され、 御室という名の由来は、かつて石柱をめぐらせた中で祭祀が執り行われていたことによるらしい。形の本殿などを設けない、原初の信仰の形があったことを物語るものだろうか。
その後、708年に祭場が、720年と807年には雨屋と社殿が造られ、さらにその後、本宮は富士山の噴火や厳しい自然の環境により、何度となく焼失、倒壊、破損をくりかえしながら、そのつど再建されてきたという。
16世紀後半には、この地の封建領主となった武田信玄公(1521~1573)による大修理が行われている。現在の本殿は、 1612年に徳川家の家臣・鳥居成次により再建されたもの。それほどまでに、この神社は大切な信仰の拠点であったということなのだろう。
中世には富士山における“修験道”の、戦国時代には“武田家三代の祈願所”として、また近世には“富士講”と結びついて発展してきていた。

けれど1964年、富士山の歴史の流れを大きく変える「富士スバルライン」が開通すると、富士講の本道であった吉田口登山道が衰退。本宮への参拝と維持も難しくなり、恒久的保存のために、1974年、この河口湖畔の里宮に「本殿」は移築された。
構造は、一間社母屋造り、向拝唐破風造り、屋根は檜皮茸形銅板茸きで、桃山時代の特徴を残すものである。 重要文化財にも指定された。

里宮本殿内

里宮本殿内

本宮の本殿と、里宮の本殿とが向かい合う湖畔の境内は、杉や松など豊かな樹木に囲まれ、今も神聖な空間が保たれていた。ここ勝山の地の産土神としても大切に崇められてきた様子が、神社のそこかしこから感じられた。
本宮があった吉田口登山道といえば、往時の繁栄ぶりが消え去ったあとも、その道筋が失われることはなく今日に残され、このたび構成資産のひとつとなった。
この唯一、現在も麓から山頂を歩いて目指せる登山道を下から登っていくと、その二合目、鬱蒼とした樹々に囲まれた山中にぽっかりと空間がひらける。
今は登山者がひと息つく格好の休憩場所になっているけれど、苔むした石碑群は堂々たるもので、森のなかで静かにゆっくりと風雪に朽ちている拝殿も、山中にある遺構としては見事なもの。登山道沿いの史跡群のなかでも、その規模や空気感が明らかに違った。里宮に移築された朱塗りの本殿とあわせ見ればよりわかるだろう。
富士山最古の神社に重ねられてきた信仰の厚さを今も感じることのできる貴重な場所だ。
ちなみに、この山中の境内は、里宮がある勝山の“飛び地”となっていて、現在は冨士御室浅間神社の「奥宮」として、年1回6月に奥宮祭が執り行われている。本宮と里宮が一対となっている。

法華宗の僧にによって書き継がれた「勝山記」
法華宗の僧にによって書き継がれた「勝山記」
武田信玄公直筆「安産祈願文」
武田信玄公直筆「安産祈願文」

河口湖南岸に残されている富士山麓の千年の記録「勝山記」

これまで、巡礼の旅は、“吉田口”から、“河口”、“勝山”へと、偶然にも富士山の信仰の歴史を過去へさかのぼってきた感じがあった。現在から遠く時をさかのぼるほど、目に見える歴史の痕跡はかすんでゆくものと実感する一方で、時の彼方に目を凝らすことで遥かな歴史のつなぎ目が見えた時の感動は、より深くなった。
冨士御室浅間神社社伝の古記録「勝山記」には、564年~1561年まで、およそ千年の間の富士北麓の歴史の様子がありありと記されている。
当時の人々の暮らしぶり、流通経済、災害や疫病などの世相。また地震、火山活動など富士山の自然現象までが生き生きと語り継がれ、特に戦国期前後の甲斐国を中心とした中世史資料としては一級のものとして重要視されているという。
日本屈指の歴史資料「勝山記」が今に伝えられてきたのは、勝山の代々の人々が、ふるさとの土地に流れる歴史そのものを誇りとし、門外不出にして守ってきたためだろう。
この他にも、戦国時代に武田三代の祈願所となった神社には、武田信玄公直筆の「安産祈願文」をはじめ、信虎公、勝頼公による古文書、信玄公自刻と伝えられている「武田不動明王座像」、「聖徳太子像」など、貴重な歴史上の宝ものが保存されている。

“馬の足洗い場”からうの島を望む

“馬の足洗い場”からうの島を望む

里宮の裏手の森から北参道を通って直接湖岸の道に出ることができる。“馬の足洗い場”という名のつく小さな岬があり、そこから湖を眺めると、ちょうど目の前に“うの島”が浮かび、その向こうに河口湖を抱く壁のようにして富士山の外輪山の御坂山地の峰が並んでいる。
富士山は背にして見えないのに、不思議と胸に染みいるように富士山を感じられる眺めだった。この風景もまた、まぎれもなく、いにしえの時につながっている。

シッコゴ公園
シッコゴ公園
流鏑馬をイメージした公園の街灯
流鏑馬をイメージした公園の街灯
小海公園
小海公園

このあたりの岸辺に沿っては、湖畔遊歩道が整備されていて、神社への参拝とあわせて巡るのにおすすめのコース。湖畔の「シッコゴ公園」から「小海公園」までは1.6kmほど。溶岩でできた入り江や、水鳥があそぶ静寂な水辺の風景を愛でていると時の流れを忘れてしまう。
遊歩道沿いでは、ここ勝山に滞在しながら名作『細雪』を執筆した『谷崎潤一郎』の文学碑など、勝山ゆかりの見どころも点在している。
シッコゴ公園は、冨士御室浅間神社に900年以上伝わるという伝統行事「やぶさめ祭り」が行われる舞台にもなっている。

 

江戸時代初期の作といわれる乗馬姿の聖徳太子像
江戸時代初期の作といわれる乗馬姿の聖徳太子像
谷崎潤一郎は昭和17年秋に河口湖畔に滞在し
谷崎潤一郎は昭和17年秋に河口湖畔に滞在し名作「細雪」を執筆。
文学碑には「細雪」の一節が谷崎の直筆で刻まれている。

富士山に一番最初に登ったのは、
天を駆ける黒馬に乗った「聖徳太子」だった?

なぜ富士山ゆかりの神社に、聖徳太子の像なのか…。冨士御室浅間神社に残る「聖徳太子像」は正装したお姿で馬にまたがっている。ここに、その問いに答えるヒントがある。
古来から、他に二つとない不二山の姿はさまざまな絵画に描かれてきた。平安時代の屏風絵『聖徳太子絵伝』のなかにも、天高くそびえるその姿が描かれ、そこに、黒駒にまたがって富士山の山頂を目指して飛ぶ太子の姿がある。これが俗にいう“黒駒太子伝説。
聖徳太子は25才のとき、良馬を求めて全国にお触れを出したという。集められた数百匹の馬の中から、太子がひと目で“神馬”と見抜いたのは、甲斐の国(山梨県)から献上された、足の毛のみが真っ白な黒々と輝く馬だった。古代甲斐国は良馬の産地であり「甲斐の黒駒」と称されていた。その年の9月、調教させておいた馬の轡(くつわ)を太子がつかむと、たちまち馬は天高く飛び上がり、そのまま空を飛んで、黒駒にまたがった太子は富士山の上空を周遊しながら信濃国へ至り、3日をかけて都へ帰ってきたという。
この伝説は、平安時代の歴史書『聖徳太子伝暦』などに綴られ、詳細のエピソードについては諸説あるものの、まだ人間が登ることのできなかった富士山を自由に行き来する太子の人離れした能力を物語る伝説として語り継がれてきた。
また一方で、同じく平安時代の『富士山記』や『今昔物語集』には、富士山に初めて登頂し開山したのは役行者(えんのぎょうじゃ)だとして、やはり神通力で自由に飛び歩けたという説話が残っている。
古代から現代にいたるまで語り継がれる富士山の伝説は他にも多い。その類い稀なる存在感は、神話や信仰、詩や絵画などの芸術でしか表現し得ないものなのかもしれない。

冨士御室浅間神社イラスト

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冨士御室浅間神社
住 所:山梨県南都留郡富士河口湖町勝山3951 TEL:0555-83-2399
http://www.fujiomurosengenjinja.jp/
駐 車 場:専用駐車場有り(マイカー30台)

富士河口湖町生涯学習課
住 所:山梨県南都留郡富士河口湖町船津1754番地
TEL:0555-72-6053(直通)

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