Now Loding

富士五湖ぐるっとつながるガイド

御師住宅(旧外川家住宅)※耐震補強工事の為2024年4月1日~2026年3月31日休館

Home > 富士山巡礼の旅 > 御師住宅(旧外川家住宅)※耐震補強工事の為2024年4月1日~2026年3月31日休館

Pocket

御師住宅(旧外川家住宅)

外川家住宅の門構え

富士講全盛の当時と変わらない外川家住宅の門構え

大きな富士山の入り口に立つ。富士山駅金鳥居から御師の町。

標高809mの富士山の麓にある「富士山駅」は、世界中からお客さまが押し寄せた夏シーズンを過ぎて、ちょっとひと息といった風情。でも実はこれからが、世界文化遺産になった富士山を構成資産を含めて、ぜんぶじっくり巡るのにおすすめの季節。初秋の澄みきった空気のなかを、いざ出発。 駅の周辺は、改名される前の駅名の町、富士吉田の町が広がっている。観光地化されていない素のままの町のそこかしこに、裾野の文化が息づいていた。 大きな富士山がいつも目の前にある町には、高層ビルなども少なく、おんなじ高さで仲良く重なりあう瓦屋根越しや、庶民的な商店が並ぶ路地越しに、驚くほど大きな富士山がどこからでも見えた。この吉田の町らしい印象的な景観が、いっぺんに好きになる。 駅から北に下ると、ぶらり散策が楽しい昭和レトロの町「下吉田地区」。 一方、南へ、富士山を目指して「上吉田地区」の方に歩いてすぐに、町のほぼどまん中、巨大な「金鳥居(かなどりい)」がそびえ立っている。 その先には、約四百三十年前、富士山という神様をお守りするため作られた「御師の町」が、そびえる富士山に向かって、まっすぐ伸びていた。 この御師の町並みは、その昔に神様の聖地という役割に準じ各家々の並びを整然と“敷き割り”してできたもの。「北口本宮冨士浅間神社」を中心にして、当時のままの配置が今もそのまま残っているという。

金鳥居にも冨士山

金鳥居にも冨士山


御師の町の入口にあたる金鳥居は、“一ノ鳥居”とも呼ばれ、ここから先、「北口本宮冨士浅間神社」の大鳥居から山頂まである幾つもの鳥居のうち、一番最初の鳥居にあたる。 富士山が世界文化遺産になるまでは、多くの人が、富士山の入口は富士スバルラインの五合目と思っていたかもしれないけれど、富士山の裾野はもっとはるかに大きく入口とするなら、この金鳥居こそふさわしく思える。 また、金鳥居は、江戸時代の巡礼者「富士講」の人々が、江戸から富士山を目指して遠路はるばる辿った「富士道」の終着点。俗世界と信仰世界の間に立つもの。 いよいよ、ここより、富士山信仰の奥深い世界の入口だ。

身を清めたヤーナ川も富士山の水 身を清めたヤーナ川も富士山の水

玄関である式台。奥が深い 玄関である式台。奥が深い

どこか懐かしい御師の家は、わたしたちの歴史につながっていた…。

表通りから奥まった屋敷までは、「タツミチ」と呼ぶ細長い引きこみ道が通じていた。これは、御師町が成立した当初の古い“本御師”の家の特徴だという。これに対し、表通りに面した“町御師”もある。さらに中門をくぐると、「ヤーナ川(間の川)」という禊ぎのための小川が今も音をたて流れている。 懐かしい、歴史ある神社などにも似た豊饒な空気が「御師の家」には満ちていた。心の奥底がふとゆるみ、自分という一本の木が、大地に深く根を張りなおしていく気がした。 広く開け放たれた表玄関から、立派なご神木が根を張る奥庭まで、やわらかな秋風がのびのびと通りぬけていく。 最盛期には、御師町の両側八十六軒連なったという御師住宅のなかで、この「旧外川家住宅」は、二百四十年という歴史を今まで長えられてきた。このご神木が、屋敷の命を守ったという、いかにも富士山の神様に仕えてきた家らしい不思議な逸話まで、後継人の原寅夫さんは、大切そうにお話してくださった。 『二百四十年もの間、壊さず、直さず残してあったというのは、ぼく自身も不思議に思うんですね。寒いですし、家族も増えていく、二世帯三世帯と住む時代に、それをガマンして守り抜いてきた。当時は世界遺産がどうのこうの、ということもなかった。それでも残そうとしたというのは、信仰者さんへの責任とか、歴史を汚しちゃいけないとか、富士山の神様への忠誠心とか、それだけ想いが強かったということでしょうね。 そういうご先祖さまの想いを、ご神木が無言で伝えていたのかもしれません』

宿坊時代の品々01 宿坊時代の品々02
宿坊時代の品々03 宿坊時代の品々04
旧外川家住宅には御師の宿坊時代の品々がそのまま残されている。

御師の家は、個人の住宅でありながら、夏の登拝シーズンは富士講の信仰者を迎え入れ、宿坊として、また祈祷などの信仰の案内までも請けおっていた。 御師とは、そもそも祈祷師のことで、家々の主が今でいう神官の役割を果たしながら、富士山をお守りする聖域の町を担っていたのだ。 『富士山に信仰のために登山する人々に、みずからの住宅を宿坊として提供し、お祈りもして、富士山信仰の布教もする。それが“富士吉田御師”ですね。 江戸や千葉など関東一円からやってくる富士講の信仰者さんたちは、わざわざ北口の浅間神社に行って拝まなくても、ここに泊まりながら必要な祈りは全て果たせ、翌日そのまま富士山に行けた。御師の家には、そういうメリットもあったわけです』 そんな御師の家の最たる特徴は、家のなかに必ず一間、富士山の浅間神社を祀る「御神前の間」がある。つまり家のなかに一つの神社があり、富士山の神様「木花開耶姫命(このはなさくやひめ)」と夫神様の「彦火瓊々杵命(ひこほのににぎのみこと)」、さらに父神様の「大山祗神(おおやまつみ)」が祀られている。 さらに外川家の場合、神様の隣に富士講の行者「食行身禄(じきぎょうみろく)」さんの像が並んでいた。身禄さんといえば、もとは一般庶民の出でありながら、富士山で修行を積み、ついに即身仏となって富士講の中興の祖として人々に敬われた。 神様の横に富士講の行者さん…。それは、いかにも、富士山信仰を庶民に広める大潮流の源となった、“富士吉田御師”の家らしい姿に思えた。

食行弥勒像 食行弥勒像 富士講の人々が召した白装束 富士講の人々が召した白装束
今も見守っている御神木 今も見守っている御神木 後継人?協力員の原寅夫さん 後継人 協力員の原寅夫さん

『富士吉田御師に伝わる富士山の信仰基本というのは、この身禄さんが言ったこと、そのものなんですね。世直しと平等。仕事など日々を大事に営むこと。正直に真面目に、一生懸命に、それが幸せになることだ、と。そういう誰にもわかりやすい身近な祈りであったことが、逆に多くの人々の救いになったということなんでしょうね』 『富士講の信者はみな白い“行衣”を着てます。これが富士山への旅支度ですね。旅支度というのは、天国へ行ってくるということです。いろいろ苦難の道があるだろうけど、それを乗り越えて神様のいる極楽浄土へ行って仏になってくる、と。富士山に登るってことは、それだけの覚悟のことだったわけです』 富士山の世界遺産の審議中、ユネスコから派遣されたイコモスの担当者が訪れた際、この御神前の間で実際に、当時の身禄さんたちがしたように、ご祈祷、お焚き上げをしてさしあげたそうだ。そして、富士山は、旧外川家住宅を構成資産の一つとする世界文化遺産になった。 『貴重な文化を、受け継ぎ受け継ぎしてきたのが富士山だ、ということが伝わったんですね。 みなさんにも、ぜひ、昔のことを思い浮かべていただいて、そこに、どんなご先祖さまたちの心があったのか、どんな想いで富士山に登ったのか…そうゆうことを思いながら、昔のように吉田口登山道を麓から登ってみて欲しいです。道が世界遺産なんですから、すごいことですよね。 代々の歴史があって、今の自分があるということ。ただ登って満足ってことでなく、富士山を愛して守っていこうという心がけも生まれます。 富士山は日本人の精神のもと、そう思います』 御師住宅(旧外川家住宅)イラスト

点線

御師 旧外川家住宅 住 所:山梨県富士吉田市上吉田3-14-8 TEL:0555-22-1101 観 覧 料:大人100円 休館日:火曜日(祝日を除く)(7・8月は無休)・年末年始 開館時間:午前9:30~午後5:00(入館は4:30迄) 駐車場:大型有り http://www.fy-museum.jp/

点線
ページの先頭へ